私は、仕事の関係上、お昼の食事を抜かねばならないことが多い。
朝食をする暇もなく、昼時になっても食事ができないとき、丁度胃部とおぼしき所、肋(あばら)の下部いったいに、虚な力の抜けたようなやるせない感じ、額にジワッと油汗がにじむのを覚える頃、もうこれ以上仕事を持続したり、一歩でも考えを先に進めるなどの気力さえ全く失せてしまうものだ。
これに似たことは、早幕にお茶漬をつけものくらいでかき込んで行ったときなどにもまたよく経験するものだ。
本年四月五日のことであった。私達の日本東洋医学会総会が東京であって、当院から三人の医師がゾロツと揃ってはるばる東上して、とあるお宅で東京風の上等の朝食にありついた。膳上に運ばれた品々は驚くなかれ、私の大の好物、東京地方のめざし、納豆、ハムエッグ、みそ汁、出るも出たりすごく蛋白質に富んだ優良食品のオンパレードである。折角のご亭主の親切も辞し難く、そのまま箸をつけないではかえって失礼とも考えられるので、後はままよと、試みに一切合切、腹中にほり込んで一同勇ましく学会にと出て行った。それまでは無事!だが、おかげで、その日は三人とも一日中、昼がきても夜がきても空腹感どころか食欲さえ起こらず、しかも不思議と仕事はもりもりやってのけたのである。
こんなことがあってから、東京風の朝食に卵や塩ザケやめざし、納豆などが愛用されるに引き較べ、関西地方、主に京都では朝からは生臭いものをさける習慣があるが、東京風の朝食が東京の活動的な生活に適するようにされている理由もうなずき、理解されるような気持にもなったのである。
その後、こんな体験を生かして、日常生活に応用してみた。たとえば「今日はどうも、昼飯が食べられそうにないぞ」と思う日――私の診察日などには――朝食のとき蛋白質に富んだ食品、卵、めざし、みそ汁、塩ザケ、塩ます、雑魚の煮物、牛乳、ヨーグルトなどの余り生臭く感じない食品の二、三を選んで副食とする。すると、昼時が過ぎてもさほど空腹感、脱力感も起こらないし、もちろん疲労感も起こらず実に快適に仕事に専心でき、全く能率的であることが明瞭となった。
こんなことは、実につまらないことのようではあるが、もしこれが真実で健康に深く害を与えないものであったならば、日常多忙で食事の時間さえなく、しかも自己の仕事に全身全霊をぶち込まねばならない人々にとっては、なんと便利なしかも都合のよいことかしれない。
ところが、丁度本年八月号のリーダイで「朝は大飯を食べて」という題下に語られていることは、私が今春来得た一連の体験を心憎きまであざやかに科学的に解明しているではないか。
もちろん私は、このささやかな体験が科学的にも真実であったことに満悦を覚えると同時に、ここにこの体験を確信をもって諸君にお勧めしたい気持で一杯になった。
その説くところはこうである……。
以前には、空腹感は胃の収縮がつよくなるからと考えられていた。胃が食物で一杯になると、この収縮がおさまり、空腹感が消えてしまうのだと考えていた。ところが、外科的に胃をとってしまった患者でも、空腹感を訴えることが判って、こんな簡単なものではないらしく思われるようになった。
ハーヴァード大学公衆衛生学部栄養科メーヤー博士の、蛋白質が食欲を起こす機構を支配するらしいという学説によると、食欲の中枢は、脳の下部の視床下部にあるが、ここを通過する血液の内容が変化すると食欲を起こさせると考えた。ことに血液中の糖分の量即血糖量がこの食欲中枢を調節するらしい。
空腹を感じる。そこで物を食べる。すると食物の一部が糖に変わる。血液中の糖量が或一定度以上に高まると、そのとたんに制御力がとれて、もう空腹を感じなくなる。だが、エネルギーを消費すると、血糖量は低下して急に中枢への調節が開始されて、そこで空腹感が起こってくる。要するに食欲をおこす限界線よりも上の血糖量を長時間保つことさえできれば、空腹感を起こさないのである。
食物は、主に含水炭素、蛋白質、および脂肪からなっている。クリームや砂糖を入れたコーヒー、巻パンなどは主に含水炭素性の食物で、オートミール、卵、魚や肉などは蛋白質の多い食物である。
含水炭素は血糖量を急激に高める。つまり、「速効的エネルギー」源であるにはあるが、このエネルギーは間もなく消費されてしまい、再び空腹の信号をあげさせる。ところが、蛋白質は血糖量を高めるが、もっと長時間、空腹感を起こす量以上に血糖量を保つ力がある。脂肪は前二者よりも消化される速度が遅く、これも血糖量を比較的一定に保つのに役立つ。
コーヒーと巻パンだけの朝食をとったものとすると、十時頃には腹は空いてくる。そこで、昼食までのつなぎに間食の必要が起こる。お茶漬をかき込んだ後もこれと同様である。いつも空腹感を心の底に覚えながら仕事をする。そこには力強い仕事の精華が生れる道理がない。
だから、前述のように蛋白質に富む食品をとる東京式の朝食が真に能率的である理由もうなずける。
またこの食事の摂取方法は肥えた人で、これ以上肥えたくない、しかも空腹感を覚えることなく食糧をへらし、痩せるために応用すると本当にその目的が達せられるはずである。
1953年10月 細野史郎