“そば”は漢名「蕎麦」、日本の古い名では「むぎそば」「くろむぎ」の名がついていた。この“そば”の名は、陽あたりのよいそばだった山地によく育つことから起こったとも言われる。“そば”は日本原産の植物ではない。アジア北中部の原産で、北方の寒い土地の作物だったとされ、シベリヤ、満州、朝鮮のほか、インドなどの高地に作られ、中国では北方地方にとくに多い。日本に伝わったのは、奈良時代とも言われ、伝教大師が唐から持って帰った”蕎麦”の種子がもとだとの説もある。その頃から“そば”は日本でも五穀の中に加えられるようになった。
“そば”は年に二度作ができ、また寒冷な荒地でもできるので、ことに凶作のときには米、麦の代用品として最適だった。また、所によっては主食として用いたくらいで、鎌倉時代では、縁日ともなれば、露店で “そば粉”を水にまぜて炭火の上で焼いて売っていたそうである。そして永年の習慣を破って新しい食べ方が工夫されたのが、そば粉に汁を加えてつくる「そばがき」である。
現在の「そばきり」が考え出されたのは、江戸時代の初期のことらしい。江戸時代の有名な料理書である「料理物語」という本に、“そばきり”の作り方や食べ方などが詳しく書いてある。“そばきり”は“塩尻そば”というのが甲州の方から始めて江戸に伝えられたもので、その起源は甲州の天目山への参拝人が多いので、これらの人々に米麦などのかわりにそばを練って餅の形にして出したが、その頃うどんをまねて今の“そばきり”にしたと伝えられている。そして、そば粉ばかりではねばりが十分でないので、そばきりとしてうどんのように長く続かせるには、うどん粉を加えると非常に手際良くできることを発見して、江戸時代から“二八そば”といって“二分のそば粉” “八分のうどん粉”という割合が市場の通例品となったのだそうだ。
「本朝食艦」という本に「蕎麦は味が甘く少し体を冷やす性質があるが、毒になるものではない。その作用は気分をしずめ、腸をゆるめる性質があり、胃腸内に自然とたまっている消化かすや、滞っている食物などをよく掃除し、腫れや下痢、腹痛、のぼせなどを治す作用があるので、のぼせ性で水毒性の性質の人にはよい。しかし、“そばきり”を多く食うと、体に潜んでいる風気(リウマチ、神経痛)を引きおこすこともあり、また癰や疔をおこすこともある。もし“そばきり”をたべて入浴すると、卒中になったり人事不省になることもある。」などと書いてある。また「和漢三才図」という昔の百科全書のような本には、そばを食って同時に西瓜を食うと煩悶して死んでしまうものがある。(ただし、西瓜を先に“そば”をあとだと害はない)それは西瓜は水だから速やかに胃から腸へはけてしまうので、「合食の難をのがれるためだ」と書いてある。
昔、大阪の有名な産科医師で難波立安という人があった。数年前のある夜、金川のどこやらにあった“そば”店の主人に、往診を頼まれた。行ってみると、一人の侍が失神して倒れており、脉をみるにすでに絶えている。
主人曰く「この人はそばを三十椀食べても、まだ満腹しないという。私が店をもってから、これほどの強食の客ははじめてだったので、これこそまさに我家の吉兆だと思って、その客に酒を一本お祝いした。お侍はまことによろこび、酒杯を傾けること数杯、忽ちふっと倒れてしまった。腹はポンポンに膨張して石のように堅くなっているので、びっくりして先生をお迎えに参ったのです
立安先生は「ほかに何か食べたのではないか」ときくと、主人は「いや酒一瓶かぎりで、ほかには何もすすめません」という。ところがその侍の傍に、もう一つの瓶がおいてあるので、先生訝しんでその訳をたずねると、主人は「知らない。この瓶は私の家のものではない」という。先生がその瓶を振ってみると、チャブンチャブンと音がする。瓶を横にすると、中から液汁が数滴と、数個の塊が出てきた。よくよくみると、それは「蝸牛」であった。
先生は早速主人に一皿の“そば”を盛らせ、それにその液を注ぎかけると、たちまち“そば”は嵩が半分ほどになってしまった。その上に一度酒を注ぎかけてみると、全くもとの通りの嵩となってしまった。このことから、「この人の死は、名医たりとも如何とも難しい」といって帰ってしまった。
「和漢三才図」には、このように、いろいろな食あわせが書いてありますが、それが本当のことかどうかは、私には今ももってわかりません。勇気ある方、どなたか一度試み願います。
1969年12月 細野史郎