漢方漫談 “そば” その三

今から二十七、八年前(執筆時は1970年:編者注)、六十歳を少し越えたくらいの痩せ細った男が、治療を受けにきた。その老人は、診察室に入るなり床にべたりと座り込んで、両手をついて、ふかぶかとおじぎをし「どうか、おたすけ下さい」という。
「七、八ヶ月前から食った物が通りにくくなり、医者をかえ、手をかえ、百方手をつくしてみたが、ここ一、二週間前からは流動性の食べ物でさえも殆ど通らなくなってしまった。
湯茶などは用心して少しずつ飲むと、一旦落ちつくようだが、一定量溜ったころになると、ひどい勢いで口の中へ逆流してくるというのである。こんな病気は鹿ヶ谷の先生に限るという噂を信じてはるばる丹波の山奥からやってきた」とのことだった。

病人があまり真剣にたのむので、気の毒になり、「食物は一切“そば”と野菜だけを用いよ。当分は“そば”粉を水または湯にといて、少量ずつ飲むこと、そして食道がよく通るようになれば追々と“そば”粉のかき方を濃くし“そば切”または普通の“そば”或いは“そば”かきを作って食べるよう。また副食物は一切、野菜とし、動物性のものは一切とらないこと、だしは“昆布だし”たること」等、厳しい食禁を教えて帰した。
この患者は、一週間目には、すでに“そば粥”がよく通り、二週目には普通の“そば”も食べられるようになり、1ヶ月後には少しばかり肥ってもきた。しかしその頃から、魚や卵や肉類が食べたくて食べたくて、家中の人々を手こずらせるようになった。また私の所へ来た時も、私がどうしても魚肉食を許さないのでおしまいには「先生をうらむ」と悪態をついて帰るようになった。
その後一ヶ月半位たった頃、私の足下にまろび伏すようにして「何とかもう一度元のようにもどして欲しい。」とたのみ込む哀れ極まる病人となってあらわれたのである。それは食禁だった魚のひと切れをおいしそうに食べた後のことだった。余りのあわれさに私も懸命に手をつくしたが、どうにもならず、一ヶ月ほどして、遂に泣く泣く亡くなったそうである。

このように食道癌では、ほとんど何も喉を通らなくとも、そば湯などを始めると通るようになり、それからそば食と野菜食とを続けてさえいれば、ある程度命を長らえるのみでなく、中には快方に向かってしまうのではなかろうかと、錯覚をするほど良くなって行く場合もある。また胃癌で胃の出口の幽門癌の場合も、上述の場合とほぼ同様で、ある程度病気を好転せしめることも少なくなかった。しかし、“そば食と野菜食”のみを貫徹することは至難なことで、魚肉食を欲しがったり、鶏卵や雑魚だしでしくじったり、或はまた、カステラや牛乳などをなに心なく用いて失敗してしまうことも少なくなかった。また幼時から食べ慣れた白米食をふっとやって失敗してしまった人もあった。そして一旦この“そば野菜食”で好転した病人が禁断を破ったときは、全く神の罰をうけた如くその禁断食を境に悪化し、その後はいかなる手段でも、なかなか好転することができない。

こんなこともあった。胃の噴門部に癌ができていて余命いくばくもないとのことで、京大レントゲン科からその治療を私に託された婦人があった。しかしこの人は私の漢方治療と“そば”野菜食をよく厳守してくれて、その後二年以上も無事生きのびてくれた。この婦人は一見弱々しそうには見えたが、日常の生活には余り支障もなく、時には観劇にさえ行けるほどで、摂食時の障害も殆ど自覚しない程度であった。あのように命旦夕に迫っていた筈の胃癌が、二年以上の長きに亘り生きさすことができた不思議さに私も、また紹介してくれた先生達も疑いはじめた。
そこでもう一度レントゲン検査をしてみたが、どうも噴門部の癌腫像がはっきり確認できなかった。私たちは噴門癌といったのは誤診だったのではなかろうか、とさえ考えるようになった。そして遂に、これ以上の食禁を強いることの非人道ささえ感じ、食禁をゆるめようと考えその人の好物の中でももっとも淡白な魚類“はも”の焼いたものを少々取らしてみることにした。ところがはじめは余り支障もなかったが、一、二週間と続ける中に次第に悪い徴候があらわれはじめ、おしまいには二ヵ年以前にみたような食物がみぞおちを通らないような症状が現れるようになった。そして日毎にその度を加え二、三ヶ月後にはとうとう亡くなってしまった。私はいまだにこの人の死に対して私達の軽率が悔まれてならない。

このように、“そば”野菜食はある程度胃や食道の癌の治療には役立つように思う。しかしその他の、副鼻腔の癌や子宮癌などでは、試みたことはあるが、余り十分な効果をおさめるほど長期間続けた経験はない。
“そば”野菜食がある程度、癌の治療に役立つのはそば粉の中に“そば”の茎にあるルチンのような成分が癌細胞の旺盛な発育を抑制するのかもしれない。しかし今のところでは、それほど深く研究もされていないし、まだ科学的な発見もない。一歩ゆずって考えるとただ“そば”のみでなくこのとき用いる厳格な野菜食は癌細胞の発育抑制上何等かの意義があるのかもしれない。もしそうだとすればこの“そば”野菜食が最低ではあっても漸く生命維持の可能性ある低栄養食料であるだけに、他の細胞に比して旺盛な発育力をもつ癌細胞の栄養源には適せず、このことが、一時的にもせよ癌腫の発育を停止せしめるのみでなく、時には治癒へとむかわしめる結果となるのかもしれない。またこんなことも考えられる。“そば”の粉は非常に粘り気が少ない、そのことがこれを水分の中に混入すると、比較的に容易に水に溶けこみ混じやすいので水と混合した“そば”粉が狭窄している食道や胃癌の狭い間隙を通って腸に運びこまれ、その病人の生命を維持し得る最小限度の栄養源となる。しかもそのように栄養失調にも近い低栄養の状態では、発育旺盛な癌細胞の発育は全く阻止せられるという見事な結果となるのかもしれない。しかしそれらの理由の何れであるかはすべて、今後の研究にまたねばならない。だがここにも癌治療の秘訣がかくされているのかもしれない。

“そば”は有用な面ばかりではなく反って人体に有害な物質となる場合もある。それば“そば”には非常につよいアレルギー性があるということである。私がこの事実をはじめて経験したのは長男の喘息のおかげである。友から送られてきた長野の銘菓“松葉菓子”からおこった事件であった。一見本物の松葉そっくりの菓子だった。長男はそれをみるや「ああきれい」と喜んでその一葉を口にもっていった。すると忽ち、「ああ苦しい」と叫んで喉を掻きむしるような恰好をした。そしてみるみる全身に赤い蕁麻疹がひろがっていった。それと同時にひどい喘息の発作をおこしてしまったのである。その銘菓の箱をよく見ると、軽井沢名産の“そば”を原料とした「松葉がし」とのことだった。それ以来彼には“そば”は大の鬼門である。“そば”のアレルギー性は、どの人にも発現するものではないが、こんなこともあるものだということをよくしっておく必要がある。だから昔の人の書いた「本草書」には、「胃腸の弱い人、体の虚弱な人には禁忌」だとおおざっぱに書き添えている。

最後に“そば”は夏と秋との二回作ができるし、荒地でもよく作れるので昔は、飢餓食としての備えに、また米麦の代用に用いられたものだった。しかしそのことよりも“そば”の花は茶人には欠かすことのできない茶花の一つでもある。それはあの白いこまかい花が丁度美人の白い歯並びを思わしめるような風情があるからである。
芭蕉庵桃青の句に
 そばはまた花でもてなす山家かな
の句のある所以である。

1970年3月 細野史郎

この記事を書いた医師

細野 史郎(ほその しろう)(1898-1989)

院長 細野孝郎の祖父
昭和2(1927)年京都帝国大学医学部卒業 昭和3(1928)年細野医院開設(後の医療法人聖光園細野診療所)

長男の小児喘息を治したい一心で漢方治療に取り組み、治療に成功する。以降も熱心に漢方治療に取り組み、京都の他、東京、大阪でも診療にあたる。日本東洋医学会設立に尽力し、昭和27(1952)年日本東洋医学会理事長に就任。多年に亘る東洋医学振興の功績により、昭和56(1981)年文部大臣賞を受賞。

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