中国には「薤」というものが古い昔からあった。「薤」とはつまり、ラッキョのことである。
ラッキョはニンニクに似ているが、ニンニクほど強烈な苦味や臭みはない。私は、あのニンニクは嫌いだが、ラッキョは好きだ。考えてみると、中国でも、ことに北部の人々は、南部の人々がラッキョを好むのに比して、ニンニクを用いるのを見ると、それは人々の好みの相違のためであるには違いないが、総じて、気候の寒暖の相違から起こったようにも思える。つまり寒冷を凌ぐのに適する脂っこい食物の味の調整のためには、ラッキョウは駄目で、ニンニクだけがあいものなのらしい。
ラッキョは酢漬けがあっさりして最もよく、酒のぬか漬けものもあるが、少しもっさりとしてラッキョ本来のあっさりした味が求められない。ラッキョは、ニンニクや葱類と同様、わずかに抗菌作用があると言われている。そのために、日本食のようなビタミン群の少ない食事をしていても葱やラッキョなどを少し多量に食していると、脚気様症候群が現れてこないのであろう。それなくば、いかにビタミンの多い食物を摂取しても、腸内の大腸菌などの破壊作用によって常にビタミン不足の状態になり、脚気様症候群をひきおこすことになるのであろう。
私はそれよりも、もっと大切な役割をラッキョは人間の生体に与えているように思う。「本草備要」という中国の薬物書を見ると、「薤」は身体の中を調え、体の陽気をつけ、血が固まろうとするのを防ぎ、善良な肌肉を生ぜしめ、下腹のある諸臓器―特に大腸の機能の渋滞を解き、下痢や排便がしぶるのを治し、更に、狭心症や心筋梗塞のときのような、胸のつまり、刺すような痛みを治す作用があると書いてある。また、喘息のように、喉のつまり、ぜりつくようなものにもよい。ことに、漢方では、この「胸痺刺痛」を治す作用を重要視して、二千年以上昔からラッキョを薬用に用いている。すなわち、枳実薤白桂枝湯とか、括呂薤白白酒湯、瓜呂薤白半夏湯などという処方を用い、心臓の病気でも、肋間神経痛のような胸の痛みのある病にも広く応用して、誠に立派な効果を収めている。
私は日常、強いてラッキョの酢漬けを愛用するが、それはまた科学的にははっきりしていないまでも、心筋梗塞や狭心症の予防には欠くことができないのではないかと思って、できるだけ毎日、少しずつでも食べることにしている。それにしても、ラッキョを食うと、ラッキョ独特の悪臭が口臭として出るので、まあ他人に迷惑をかけることになりかねないところから、ラッキョを食べる日と時刻、それに分量とに、予め注意することにしている。
1973年4月 細野史郎