―卵の使用は、その健康状態の如何によってその適否を定めるべきである―
卵は、一個の生命体であり。それ自体、完全食品であり、また、動物性蛋白質の中でも、もっとも理想に近い良質の蛋白質だとされている。
だから、この卵の蛋白質価を100%とみると、他のいずれの食品も、この一〇〇以下で、牛肉は83%、牛乳78%、大豆73が、米72%、魚70%でしかない。すなわち、いかに卵が総蛋白質の面からみて優秀な食品かが肯けよう。
このように、ただ分析表の上からみれば、申し分がないから、卵さえ摂っていれば、他の動物性食品は、肉も魚も必要がないなどと、とてつもない誤まった考え方に陥る位険がないこともない。
経験的にいって、私達が健康なとき、卵を食べると、肌もつやつやとして、たしかに元気がでてくるのが知っている。だから、卵こそ、最高の蛋白質供給食品なのだと思い込んでしまっては、早合点も甚だしい。
中略
それは、動物性蛋白質、すなわち、卵・肉・魚などは強い酸性食品であるからである。一方野菜・海薬類・豆類などは、アルカリ性食品である。だから卵や肉を食べれば、野菜類をともに食べないと、血液は自然と酸性に傾いてくる。血液が酸性となると、いわゆるアチドージス、すなわち酸性中毒の状態ともなる。したがって、脳でも、肉体でも、また諸臓器も、その細胞は、もはや正常の働きができなくなる。今、かりに卵一個を約五〇グラムだとして、一個の卵を食べたときには、豆腐四分の一丁と、野菜、海藻類の一五〇グラムを、いっしょに食べないといけない。このことは、酸性食品の約三倍量のアルカリ性食品を共に摂らないと、体には当然、悪い影響が起きるのである。たとえば、お医者さんが、「卵はよいものだから、1日五個まではよろしい」と言ったとすると、そのとき野菜類は、いやでも応でも、その三倍量の七五〇グラムは食べなければならない。しかし、そのようなとてつもない多くの量の、野菜類を一時に食べられる牛や馬のような大きな胃を、もち合せていないわれわれには、とうてい不可能なことである。もしこのような野菜を食べることを怠ったとする、またその人が、この卵のほかにも、もっと多くの量の魚や肉を同時に食べたとすれば、いよいよ動物性蛋白質の摂取過剰は、自ら酸、アルカリの平衡をやぶり、肝臓、腎臓、心臓には、ただならぬ大きな負担をかけることとなる。そして、こんなことが日常、平気で続けられていると、当然、もはや健康ではおれなくなる。
このように、血液の酸、アルカリの平衡というただ一つの点から考えただけでも、卵の過剰摂取の害は、思い半ばに過ぎるものがある。
それに、年齢的にいっても、幼児期の血液はアルカリ性だが、中年期は、中性、そして老境に入ったものは、酸性に傾いているので、卵のみならず、動物性食品の摂取にはそれぞれの年齢期にあわせて注意せねばならぬ。特に手軽く手に入る卵には、十二分に心せねばならぬ。
一般的に言って、病人は、健康時の卵の力を信じて、病中でも卵を食べて、元気になりたいと思うものだが、実は病気のときには、必ず胃腸も同時に弱っているものだから、蛋白質や脂肪の多い卵を食べると、案外胃腸に重い負担をかけ、その消化吸収どころか、かえって、病気を悪悪化する基いともなりかねない。またたとえ卵の、スタミナ回復成分が幾分吸収されたとしても、このすでに弱っている体には、むしろ刺激過剰になって、ただいたずらに疲労を増すぐらいしか役立たない。
以上の理由からみても、卵を食品として常用することは、真の健康の場合と、病的状態の場合とでは、大いに相違があることをよく理解しておかねばならぬ。
しかし日本の人々は、医者はもとより、一般人といえども、卵をあまりにも無条件に、日常多く摂る習慣と傾向がつよい。その結果、私達のもとに、治療をもとめて来られる人達に、案外それがつよい障害となっているのに気づき、聖光園の食事指導の第一番に「病人にとっても、体質改善の上にも卵がいけない」と教える。そして、我々日本人の陥っている先入感や、悪い習慣から、抜け出さしめようとはかっている。卵が食品として病人にとっては悪いものだとの私の考えは、まず、小児の急性腸炎や疫痢を治すときに、いやというほど経験したことにはじまる。また、わが児の喘息を治療する上にも、また胎毒性の瘡 や湿疹を治すときにも、常に経験した。そして卵が病人にとっては、特にある種の病にはいけないこともわかった。
それやこれやで、病人は卵食から遠ざかった方が、むしろ治療経過も短縮でき、その経過も良好となりやすいと考えるようにもなった。そのとき、こんなことがあった。
それは今から、およそ二十六、七年も前、あの世界大戦中のことだった。田舎からすでに七十歳をはるかに越えてみえるやせおとろえた老人(男性)が来院した。病名は、胃潰瘍で、胃痛と、吐血がおそろしく、それに粥食が全然嫌いで、もう二十数日以上も食物らしいものを口にしていない。勿論、田舎でもいろいろと手当はしてもらったが、一向によくならないので、必死の思いで遠路をはるばる来院したのであった。その人はもう、文字通り骨と皮とに痩せこけていて、その衰え方は、もはや極度に達していたので、私の下に入院せしめた。あれこれと漢方的治療を加えたし、また最後の手段と思って、野菜食を主とする食養法を指示したのでもあった。その当時、私の医院では、自炊だったので、付添ってきた妻に病人食の一切を作らせていたが、余りにも田舎者のこととて、病人の目にも舌にも十分に気に入るだけの料理もできず、それに粥食は絶対にいやがって、いやが上にも食欲をへらし、遂には絶食の日々を重ねていく一方だった。幸い漢方の煎汁はおさまり、その薬力で腹痛も鎮まり、吐血も止んでしまったのに、一向に元気回復の兆もみえない。これはひとえに、食事が口に入らないためなのだ。
その当時の私は、経験的に卵に対してある種の恐怖をさえ持っていたので、卵を摂らしてみようという気にはなれなかった。が、しかし、この病人があまりにも米類や野菜など一切の食物がとれず、いよいよ体力をけずって行く一方なので、思い切って卵黄を一度試みてみようと思い、その一個分と、粥をやめて米飯をそのまま与えることにした。勿論、そのときの米飯は「百回噛み」という条件だった。すなわち、これは粥としては与えないが、口中で十分に噛み砕き、粥状にせしめるためなのである-。
すると、今まで一物もとれなかった食物がようやく咽を越し、心なしかその声にも幾らかの力がでてきた。そうしてそれからは、日ましに快方に向っていったのである。悪くはなかろうかと思って心配していた卵黄が、見事にお役にたったのである。そうして驚いたことに、一ヵ月ほどたった頃には、病気もよくなり、大へん肥ってきて、のびた髭をそったのをよくよく見ると、嘗て、七十幾歳かの老人だと思っていた人が、若々しい五十歳そこそこの人になっていたのには、今更の加くあきれたのだった。
1970年11月 細野史郎