細野漢方診療所 Hosono Kampo Clinic
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健康への近道―正しい食生活が必要だ―

ことわざの通り、人間は健康でないと正しい考えはできるものではない。

いやに気短になって、ちょっとしたことにも腹を立てたり、物事が“ありのまま”に見えず、自然をいがめて見たり、聞いたりする人が、近頃いかに増えたことか。

たとえば、我々の手近な人々について考えてみても、生まれつき弱い故に、日々の健康が恵まれていなかったり、過労のために心や体の乱れがおこったり、食生活の乱れから心身の異常が起こっていたり、或いはまた、後天的にやむにやまれない事情があって、生来の完全な五体にメスを入れたりして、とにかく不完全な体になった人などでは、その頭の働きにもたしかにいくばくかの欠陥が起こることもある。だから、考えが病的になったり、いがんだ女々しい考えになったりするのも無理からぬことである。

このことは、現代医学でもよく認めているところで、例の直り難い慢性のリウマチで、永い歳月苦しんでいる人は、そのたえ間ない苦痛のために、心身がさいなまれ、容貌や性格の上にも、大きな変動が現れる。
非常に猜疑心がつよく、すべてのことも悪しざまに考え、人の好意もそのままには受け入れない性格の人と変じてしまうことがよくある。

また、日々、わずかなことに怒気をふくむ習慣のある人は、いつの間にか、心から楽しめない人となって、顔の形も自然と角張って、怒の容相に変じ、たとえ笑いたいと思っても、なかなか心から「心よき笑」をたたえることもできなくなってしまう。これが、世に言うヒステリー性の顔貌なのである。

このように「健全な精神は、ただ健全な身体にこそ宿る」という法則は、決して偽りではない。

そのような健康な肉体や、精神を作りあげてゆく、もっとも近道は、なんといっても、まず衣・食・住を正しくすることからはじめねばならぬ。中でも、食生活は、もっとも大切で、手近なことである。

敗戦後の日本では、肉食だけが滋養性に富んだ、生命を養うだけの価値のある食物だと考えちがいする人が多くなった。そして、蛋白質と言えば、魚、肉の類だけで、植物性食品の中には、全く蛋白質を含んでいないように誤解している人さえもある。
このような間違った考え方は、人々をしだいしだいに、魚、肉ばかりの美食の食生活に追込み、外観的には、ブクブク肥ってみえるので、真の健康からはほど遠くなっているとは考えもしない。
しかし、真の正しい食生活は、そんな見せかけ健康美ではなく、病を治療する上にも、非常に大切なものなのである。

これは、私のごく親しい人に起こった出来事であるが、この人が四十歳なるかならずのある春の日、突然、脳溢血のために倒れてしまった。それでも、第一回目の発作は、大変軽くて、手足の自由がわずかに奪われた程度で、一、二ヶ月の後には、ほとんど元通りに回復してしまった。
ところが、その後六ヶ月ほどした頃、またまた、第二回目の脳溢血のアタックに見舞われた。このときは、前回より非常にひどく、一時は生命のほども定かでなかったぐらいであった。しかも、生命の危険の去った数日後、ひどい右半身不随と、ほとんど聞きとれないほどの言語障害がのこされていた。

私が懸命に漢方の秘術を尽くしたのも当然である。一ヶ月後には手足の不随もよほど回復したが、言語障害はひどく、ちょうど、一歳の赤児程度にしか話ができなかった。それでも、その後四、五ヶ月経った頃では、手足の不自由はほとんど元通りに回復した。だが、言語障害はあまり軽快せず、彼の意志がようやく理解できる程度に過ぎなかった。
この上、更にもう一度、新しいアタックが加わったら、おそらくこの命も一たまりもなく消えてしまうだろうとあやぶまれた。

私はこの漢方治療に、更にその力を一層つよめる方法はないものかと考えた。
私の心に浮かんだのは、この上の養生は、食生活を正しくする以外には方法がないということだった。そうだ、玄米食にその主体をもっていってみようと考えた。すなわち、季節物の野菜や粗末な新鮮な魚類を田舎料理のようにして、主食は、厳格に玄米をもってすることにしたのだ。この人も、その家人も、この私の提案に快く同意し、以後、徹底的な食養生を行った。
そして、それから今日まで、ほとんど十七・八年間、新しい脳溢血のアタックに悩まされず、肉体的には至って健康である。ただ言語障害だけはまだわずかに残っている。

このような四十歳前後の人々の脳溢血は、その後も二・三回あったが、そんなときは再発を防ぐため、思い切って、上述の玄米食をすすめ、適当に漢方治療を加えることとしている。そして、いずれも再発を防ぎ、健康な生活を享楽してもらっている。

また、こんな例もある。
ある日、三十五・六歳の銀行員が、大阪の私の診療所を訪れた。彼はとてもひどい気管支喘息を小児時代からもっていた。ことに、二十五・六歳頃からは、ひどくなる一方で、あらゆる療法も、その当時流行していた青汁療法も試みたが、一向に好転しなかった。
この人は私のもとで漢方治療をつづけ、ほぼ半カ年ほどで、よほどよくなったが、それでも全然発作を起こさないまでには至らなかった。
そのうちに、彼の足は、だんだん遠ざかり、全く来なくなってしまった。そして、それから約1カ年有半、再び私の前に現れたときには、前にもまして悪化していた。

彼の話によると、あのとき折角、少々好転したのに、ふと人の甘言にのって、他の治療法に迷って移ったのだったが、それが反って、日々の悪化の因となって、今日では、どうにもほどこす術もなくなってしまった。お恥しいが、またお世話になりに来たというのであった。
私はこのときは、思い切った方策を指示することとした。それは徹底的な食生活の改善であり、厳格な玄米食生活なのである。彼も今度こそは、全くの背水の陣、快よく私の指示に従って、ただただ養生にいそしんだ。
ところが、この度の漢方の効き方は実に素晴らしく、目をみはるにたるものがあった。そして、日に日によくなって。半カ年もすると、全く発作から解放され、もと以上に健康な身体になってしまった。
その後、数年を経て、彼は私の診療所に顔をみせた。それは、彼の知人の難病を私に救ってほしいと考えてやってきたのであった。そして、そのときの話では、彼は、あれ以来喘息発作に悩まされることはなくなったといって、非常によろこんでくれていた。

私がいかなる難病でも必ず克服し得るとの確信をもっているのも、少なくとも、内科的治療においては、世界にたぐいのない優秀な漢方医術を知っていることを一つの理由とし、二つには、もしその力に不足があれば、より正しい食生活にもどすことによって、より優れた効果を発揮し得るという確信があるからである。
このように、むずかしい病を治すにも、また悪い病の襲来を防ぐにも、食生活をただすことは非常に大切なことである。まして、前にも言ったように、身体の悪い人では、その心にも歪がつよくなりやすいものだから、正しい人間であるためには、どうしても、正しい食生活に立ち帰らねばならぬ。

その正しい食生活には、必ず主食を玄米にしたり、玄麦のパンや黒パンにする方法もある。また副食物についてもいろいろな考え方もあろう。
しかし、その食生活は、どこまでも正しく、現代人の好みにも、趣味にも合致し、しかも日常手易く安価に行われるものでなくてはならない。ぜひとも、そんな正しい食生活を案出したいものである。そして、今年こそは、四六時中、健康で、元気一杯、若々しく暮していきたいものだ。

1973年 細野史郎

この記事を書いた医師
細野史郎(1898-1989)

細野 史郎(ほその しろう)(1898-1989)

院長 細野孝郎の祖父
昭和2(1927)年京都帝国大学医学部卒業 昭和3(1928)年細野医院開設(後の医療法人聖光園細野診療所)

長男の小児喘息を治したい一心で漢方治療に取り組み、治療に成功する。以降も熱心に漢方治療に取り組み、京都の他、東京、大阪でも診療にあたる。日本東洋医学会設立に尽力し、昭和27(1952)年日本東洋医学会理事長に就任。多年に亘る東洋医学振興の功績により、昭和56(1981)年文部大臣賞を受賞。

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